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黒柳徹子

黒柳徹子さんのワタシの、センタク。

今のワタシが出来上がるまでのいくつかのセンタク

  • 第1回:女優として、仕事における二つの大きなセンタク
  • 第2回:その選択が「その後の人生」を大きく変えた
  • 第3回:新しい、違う世界に飛び込んで知ったこと
  • 第4回:80歳の今、次なる大きな選択は?
黒柳徹子
女優、タレント、エッセイスト、ユニセフ親善大使。1950年代から『ヤン坊 ニン坊 トン坊』『若い季節』『夢であいましょう』などでラジオやテレビで活躍、NHK紅白歌合戦の司会を務めるなど、多彩な才能を発揮。テレビ朝日『徹子の部屋』は1976年から39年間続く世界的な長寿番組としてギネスにも登録されている。

第1回:女優として、仕事における二つの大きなセンタク

子どもに絵本を読んだり、人形劇したり
お母さんになるために入った俳優養成所

まず人生最初の大きなセンタクだろうというのが、20歳の時NHKの放送劇団に入ったことですね。
私はその前にオペラ歌手になりたくて音楽学校に通っていたのですけれど、どうもうまくいかなくて。

それでどうしようかなと考えていたんですが「そうだ、私はそのうち結婚してお母さんになる。その時、料理や洗濯や掃除が上手にできるお母さんはたくさんいるだろうから、私は自分の子どもに絵本を読んだり、人形劇をやってあげられるお母さんになろう」と決めたわけです。

母に「どこに行ったらそういうことを教えてくれるのかしら」って聞いたら、「新聞に載っているんじゃない?」って(笑)。そうしたらホントに載っていました。テレビが始まるので、NHKの放送劇団募集の記事がね。一日だけの募集だったそうです。それで行ってみようと応募したのが最初のセンタクですね。

テレビ女優第一号とか言われてまして、劇団では演技とはどういうものかとか、テレビに出るっていうのはどういうことか、なんて教わるんですが、自分の中では「私はお母さんになる予定なんだけど、こうして女優になっていっちゃうっていうのはいいのかしら」という思いが、ずっとありました。

それに、最初の年は、通行人の役なんかやっても個性が邪魔だ、引っ込めてって言われたりしてましたから、ますます。

ところが翌年になったら突然、「個性化時代」が来て、それまで引っ込めろって言われた個性を、今度は出してくれって言われて。引っ込めたり出したり、よく分かんないなァと思いましたけれど、とにかくその後は、どんどん仕事が来ましてね。

テレビもラジオも週に7、8本あって、それはたくさん、たくさん仕事をしました。毎日、仕事するだけで精一杯、仕事に押し流されてしまうという日々が15年くらい続きました。

一切の仕事を辞めてニューヨークへ。私ね、
物事良い方にしか考えない質(たち)なんです

そこで次の、大きなセンタクをしたんです。ニューヨークに留学することです。幸い、仕事を通してブロードウェイの演出家や演技の先生なんかとお知り合いにもなって、身許引受人の夫婦がブロードウェイの作曲家だったり、彼らが誘ってくれたこともあって、ここはひとつ、一生涯この仕事を続けていかれるのかどうか、一度じっくりと考えてみないといけないなと思いましてね。

それで、司会もドラマのお仕事もコマーシャルも一切辞めて、ニューヨークに行ったんです。それが37、38歳くらいでしょうか。

その時、私には「このままずっと仕事を続けられるのか」という不安があったんです。そもそもお母さんになるつもりだったんだし、大して才能もないし、何だか分からないまま、こんなに毎日忙しいし、でもこのままでは長続きしないと思いました。もっと違う仕事のほうが向いているのかもしれないとも考えましたしね。

そしたら森光子さんなんか、ほんとお優しくて「是非、行ってらっしゃい。おこづかいが足りなくなったら送ってあげます」なんて言ってくださったの。でも「帰ってきて、仕事がなかったらどうするの?」とおっしゃる方もいましたね。

ですけれど、「もう15年もやっていて、ちょっと休んだくらいで仕事がなくなるなら、それは才能がないってことだわ。まだ40歳だし、なくなった時はなくなった時で、また他の仕事を探せばいいわ。もしかしたら、もっと自分に合う仕事が見つかるかもしれないじゃない?」なんて思って。

私ね、物事良いほうにしか考えないくせがあって、そういうの心配しない質なんです(笑)。

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